チップの国で考えたこと(超長文 注意)

アメリカのシアトルにきています。

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アメリカで1ドル札が無くなると本当に焦ります。
ホテルのドアマンに、ベルボーイに、ベッドメイクに、レストランのウェイターに、タクシーの運転手に、
このサービスにチップは必要かどうか、いくら必要か、しょっちゅう悩むことになります。

「日本にはないチップ文化は煩わしい、日本って良い国」
って、ずっと思っていましたが、今回ちょっと考えを改めました。

サービスが当たり前という価値観の日本は、本当に良い国なのでしょうか?

 

「日本人は、サービスは無料だと思っている」

日本でコンサルタント・ビジネスを立ち上げたアメリカ人に、日本で一番苦労したことは何かと尋ねたときに、彼は即座にこう答えました。

日本では「サービス」のように、カタチに残らない労働は「無料」という価値観が根強く、コンサルタント料としてお金を払うことを理解してもらうのに相当苦労したそうです。

もちろん、日本でもホテルの料金にサービス料は含まれているし、レストランの料金にもサービス料は含まれています。
チップに見合うサービス料を別の形で払っているということです。

ただ、「お金を払っているのだからサービスは受けて当たり前」と思って生活しているのと、
「サービスを受けたからチップを払わなくて」は思って生活しているのとでは、

労働に対する意識に大きな違いがあるような気がします。

体感的には、チップ文化の方が、誰かがしてくれたサービスに対して、常に正当に評価しなくてはいけないという気持ちを持つようになる気がします。

 

「誰に食わせてもらっていると思っているんだ」
専業主婦の友人が夫に言われた言葉を思い出しました。
(「一昔前のドラマじゃあるまいし」というツッコミもしたいところですが、それはそれとして)

専業主婦が毎日遊んでいるわけではないことは、誰でも知っています。
ただ、彼女たちの仕事は金銭的な評価をされないため、金銭的な評価をされている夫と比べて価値が低いと日本では考えられているのでしょう。

その背景にあるのが「サービスは無料」という価値観ではないか、というのが、今回チップを払って考えたことです。

専業主婦の妻に、当たり前のように衣食住を整えてもらっているのに、
妻のサービスを正当に評価しない夫は、一人前の大人として、かなり恥ずかしい気がします。

 

チップ文化のアメリカで、チップを払わなくてよい人たちがいる。
”こども”です。

それは、逆を返せば
「いい大人なのに、サービスをただで受けるのは恥ずかしい」
ということなのかもしれません。

チップを払うときに、
「一人前の大人としての恥ずかしくない振舞いをしている」
と考え始めたら、きちんとチップを払う自分を少し誇らしく感じられるようになりました。

 

税金にも同じことが言えるかも入れません。
消費税は別として、基本的に社会を構成している大人なのだから、自分が社会から受けているサービスに対して対価を払うのが当然です。
「いい大人が、サービスをただで受けるなんて恥ずかしい」
のですから。

税金の使い方に納得がいかないから、というのは全く別の問題です。

大人なのですから、それは別の方法で解決すべき問題です。
大人だったら、自分の意思で投票もできるし、政治に直接かかわることだってできます。

「節税」をうたった本やテレビで節税を声高にいう自称エコノミストを見ると、
いい大人なのに、なんだか恥ずかしい気持ちになります。

社会からサービスを受けていることに対して「一人前の大人として恥ずかしくない振舞いをしている」と思うと、きちんと税金を払っている自分を誇らしく感じます。
「いい大人が、サービスをただで受けるなんて恥ずかしい」
これは、裏を返せば、サービスをしたのに代償を受け取らないことは、相手を一人前としてみなしていないということになります。

日本人は、お金の話をするのが苦手だと言われていますし、実際私もすごく苦手です。

例えば、自分が何かをしてあげたとき、例えそれが自分の専門性を生かした立派なサービスであっても、ちょっと知り合いだったりすると、つい「いや、いいよ」と言ってしまったり、不要なディスカウントをしてしまうことがあります。

しかし、相手を一人前の大人として考えているのであれば、そのような行為は大人として恥ずかしいのかもしれません。

相手との対等な関係を尊重するのであるならば、対価をしっかり受け取るというのが、一人前の大人としての正しい姿なのでしょう。

 

阿部政権では、女性活用がその重要課題なのだそうです。
そしてその解決方法が保育所の増設だ、という意見には強い違和感を覚えます。

もちろん、現在働こうとしている女性で、保育所がいっぱいだから働けない場合、それは有効な手段になるでしょう。
ただ、それだけで解決するほど、問題の根は浅くないと思うのです。

私も子供が生まれるときに、仕事を辞めました。
朝7時から夜11時まで働くのが当たり前だった夫と、仕事を最優先しがちな私が、保育所に子供を預けたら、確実に家庭が崩壊すると思ったからです。

おそらく、どんなに保育所が増えたとしても、やはり私は仕事を辞めたと思います。

「家庭のために仕事をしているんだ」と言い放つ男性は結構多いのではないでしょうか。
もちろん、家庭を営むためにお金は必要だし大切です。

だけど、家庭を持たない人は働かないのでしょうか?100%NOです。

敢えて断言するなら、人は(男性も女性も)家庭のために働いているのではありません。

働くのが社会を構成する大人としての役割だから働くのです。

そして、その働きに対する代償は、会社員であれば会社が、公務員であれば国や自治体が、事業をしている人であれば、顧客が払っています。
つまり、家庭の外で働いている人は、すでに対価を得ているのです。
そのうえ、妻に「仕事をしていること」に対して対価を求めるような態度をとるのは、筋が違う気がします。

ただ、家庭を営むということは、大変お金がかかることです。
お金がかかるというのは、家庭生活が受けているさまざまなサービスに対して、大人としては当然代償を支払わなければいけないということです。

私は上の娘が1歳を過ぎたころにパートタイムで復職をしました。

そのとき使ったベビーシッター代、私立の託児所代、家事サービス代、その他子供の面倒を見てくれる人たちに対する代償は、私の給与とどっこいどっこいでしたし、そのアレンジをすることは、相当に労力のいることでした。

夜の会食等があると、ベビーシッター代に軽く1万円は払わなくてはいけないのですから、飲み会だっておちおちいけません。

それでも、娘が1歳になるまでの日々より、パートタイムで外で働いた方がずっと楽でした。
それまでは、一日2時間以上長く続けて寝たことがないし、起きているときは何かしらの働かなくてはいけなかったのですから。

私は今専門職としてそれ相応の給料をもらっていますが、そのときの労働の方がはるかに大変だったと断言できます。
単純に労働に対して価値を付けるとしたら、年収3千万くらいもらわないと絶対に合わない気がします。

世の男性はわかっているでしょうか。
専業主婦として育児をし家事をすることに支払うべき代償は、あなたの給料では支払えないくらい大きいかもしれないということを。

 

今の若い女性の中には、こどもを持つのは大変そうだから、産まないことを選択するという人も多く、その結果少子化は止まらない状態です。
経験者として、それはそうだろうな、と思います。

だから思うのです。

保育所を増やすことは、育児をする女性の大変さが増やすだけの対処療法的な政策であり、より大変になった女性がさらに子どもを産まなくなるという選択をすることにつながるのではないかと。

 

でも、私がまだ若くもう一度選択が可能だったして、
もし幸いにして子どもを授かることができるなら

絶対に子どもを産みます。
子どもが1歳になるまでの労働に対する代償が3千万円だったとしたら、借金をしてでも子どもを産みます。
子どもの存在は、そのくらい何物にも代えがた宝物なのです。

「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」
「憶良らは今はまからむ子泣くらむそを負ふ母も吾(わ)を待つらむそ」

誤解しないでほしいのは、私は決して男性を責めようとしているのではないということです。

これは断言できることですが、私自身がもし男性だったら、仕事優先のとんでも夫になっていたのは明らかです。

そんな私自身を含めて、仕事をするということを、何か特別なことのように、何よりも優先すべきことのように考えている人に、

「本当にそうなのですか?」

と聞きたいのです。
社会を構成する一人前の大人だったら、仕事をすること(家事をすることも含めて)は、当たり前なことです。

そして、子どもを産み育てることは仕事ではありません。

産めない人だってたくさんいるのは分かっていて敢えて言わせてもらえば、それは人が宝物を授かるということです。

だから、母親はどんな環境にあっても、泣きながらでも子どもを産み、育ててきたのです。

 

[ちょっと補足]

1歳児未満の子を持つなら、年収3千万円は欲しいと書きました。
それはちょっと現実的ではないのでは?と指摘する人もいるでしょう。

昔から、家事労働を給与換算すると?などという試算がよくあります。
前に書いたように、育児は仕事ではないので、まったくナンセンスではありまsだとは思うが、あえてするなら、ということでちょっと計算してみました。

母親の仕事の代替価格の試算です。

乳児が一人いるとします。
夫は育児も家事もしない。

そのとき、妻はなんらかの事情で育児も家事もできない状況になったとします。

乳児を1人でおいておくわけにはいかなのので、24時間のベビーシッターが必要になります。
24時間はいらないと思うかもしれませんが、子どもが寝てる時間でも、一人遊びをしている時間でも、当然ベビーシッターに費用は発生します。
9時から5時で2,000円、夜間は2,500円くらいかかりますから、一日56,000円。
それだけで一年で2,044万円です。

ベビーシッターは、基本的に家事はしません。

当然家事は別の家政婦さんに来てもらわなくてはいけなくなりますが、
子どもがいるので、離乳食の用意もあるし、洗濯物も多くなります。
1日3時間×2000円が365日で、219万円

さらに、1歳児は病気をします。病児保育というのは、オプションで別料金がかかります。
1日1万円として、20日で20万円。

さらに、1歳児を検診や予防接種に連れて行くことも必要です。
基本的にベビーシッターはそんなことしないでしょうからオプションとして、5回で5万円。

年末年始は当然割増料金だし、深夜2時間おきの授乳というのも当然別料金です。

そんなこんなで、ざっと2500万円は最低かかります。

もっとも、2500万円払っても、そんなベビーシッターが見つかるとは思えません。

子どもの命を24時間365日預かることに対する特別割増費用としてあと500万円加えると、あら、ぴったり3000万円笑

そうそう、子どもが一人増えると、ベビーシッター代は一人のときの5割増しになります。
3人いたら2倍です。

でも、そんな状況になったら、いくらお金を積まれてもベビーシッターなど引き受ける人はいないでしょう。

育児が仕事にはなりえないのです。

育児が仕事ではない、もう一つの理由は、育児中は赤ちゃんが発する幸せオーラに包まれる特権を持つことです。

赤ちゃんは偉大です。
見るものすべてを幸せにする力を持っています。
それが自分の子どもだったら、100%すべてを投げ出しても良いという気持ちになります。

そして、大変さのベクトルが逆の符号を持つのも育児ならではです。

1人で育児をすると大変なことが多いが、夫とシェアする育児は喜びの方が多いのです。
さらに、自分や夫の両親、ベビーシッター、託児所などなど、色々な人を巻き込むと、すべての人がとびきりの幸せな時間を共有できます。

孤独育児のマイナス符号は、シェア育児でプラス符号に変わるのです。

実は家事も同じです。
専業主婦の家事は労働に近いですが、家族とワイワイ作る食事は楽しいレジャーだし、年末大掃除は爽快行事になります。

阿部政権が本当に女性労働(もっとも今も労働はしているが)を、家庭外で活用したいのであれば、家庭内労働をプラス符号に変える方法を真剣に考えるべきではないでしょうか。

チップを払ってずいぶん遠くまで考えが及びましたが、
「大人である」ことは、ずいぶん自由で楽しいなと思います。

これから、家族の待つ東京へ帰ります。

 

たまちゃんより

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