大器晩成

欧米に行くと、お店やレストランのサービスにがっかりする頻度は、日本にいるときと比べて多い気がします。

もちろん、一流のサービスを受ける場合もありますが、日本のすごいところは、その厚みです。

それほど高級ではない場所でも、丁寧なもてなしを受けることができるって実はすごいことです。

外国人が日本に来て、日本人は礼儀正しいとか親切とか優しいという印象を持つことが多いのは、そういうことだと思います。

 

一方で、客としての振舞いはというと、残念ながら欧米人に軍配があがるような。

「ありがとう」と言う言葉、お店の人への態度、見習いたいなあと思うことが多いです。

 

サービス自体が一流な分、日本人のお金を払っているんだからというような振舞いを目にすると、とても残念な気持ちになります。

なんて偉そうに言っている私自身も、ついついそんな風にふるまっていることに気付いて愕然としたりします。

 

私はそれは三波春夫のせいだと思っていました笑

彼が大阪万博のときに「お客様は神様です」と言っちゃったからじゃないかと。

ところが、あの言葉の真意は別のところにあったようです。

『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです』

三波春夫オフィシャルサイトより)

 

演者が神事をするごとく、というのは本来芸能がそうだったわけですから、当たり前のことですが、お客様をその神事を見まもる観衆とは見ずに、あたかも一人一人を神と思って芸をお見せするという心構えを持っていたところに、彼のすごさがあるのでしょう。

そうであるなら、実は客側も「神さまと思われている」自分にふさわしい振舞いが求められるのかもしれません。

 

 

お茶のお稽古の第一回目は、「客振り」と言って、お客様としての振舞いを習います。

そしてこの「客振り」のお稽古は、その後も毎回毎回、おそらく稽古が続く限りずーっと続いて行きます。

 

お茶を習う前は、お茶会などに行ってもどう振る舞っていいのかわからなくて、それがお茶の敷居を高くしていました。

でも、自分がお茶を振る舞う側に立ってみると、お客様にどうして欲しいかというと、とことんこの場を楽しんでほしいという一事につきます。

そして、そのために色んな工夫をします。

 

ワタワタ動き回ったのではお客様も落ち着かないだろうからと、流れるように動けるように練習を重ねます。

暑い日には涼しくなるような工夫をとか、季節が感じられるような工夫をします。

素敵な掛け軸を懸けたり、使いごこちが良い景色が良い道具を使うのは、自分だけの力ではなく過去の多くの偉人にもおもてなしを手伝ってもらうためでもあります。

 

だからこそ、そんなおもてなしを味わい尽くすために「客振り」の稽古が必要になるわけです。

一流の客人というのは、自分に対して心を尽くしてくれた人の気持ちをすべて受け取る大きな器の人のことなのでしょう。

器を大きくするための稽古だと考えると、「客振り」の稽古の大切さがわかるような気がします。

 

器を大きくする訓練は、何もお茶の席にいなくてもできる気がします。

 

家では、家を調える家事をしてくれる人の気持ちをすべて受け取れるような、大きな器になる。

お店などでサービスを受ける側にいるときに、サービスする側の気持ちをすべて受け取れるような、大きな器になる。

誰かに文句を言いそうになったら、まずは相手の気持ちを受け取れるような、大きな器になる。

 

そういえば、電車で席を譲ったら「失礼な」と怒られて逆に嫌な思いをしたという話も聞きますが、

誰かが席を譲ってくれたら、席を譲られたことに嫌な思いをしても、まずは譲ってくれた人の気持ちを受け取る大きな器があれば、ユーモアのある返しができるようになるかもしれません。

家人が弁当を忘れて行っても、夏休み明けだからの寛大な気持ちで許すことができるかもしれません。

家人の部屋がどんどん汚れていっても、忙しいからねと笑顔で掃除してあげることができるかもしれません。

家人に「次はこれに金がいる」といわれても、「君の将来のためなら」と喜んで出すことができるかもしれません。

 

おっと、主題からはずれました・・・

 

もとい。

 

もしかしたら大きな器となることが、大きな人、大人になるということなのかもしれません。

 

大器晩成を目指すたまちゃんより

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