和敬清寂

1月2日、皇居の一般参賀に行ってきました。

着いた時間帯が悪くて2時間ほど待ったあと、パタパタと振られる日章旗の間から垣間見える天皇陛下の年頭の挨拶を聞いたときに、ふいに胸が熱くなって自分でもびっくりしました。

「わが国と世界の人々の平安を祈ります」

天皇陛下の重要な仕事の1つが、年間30回にも上る祭祀をとり行うことだといいます。
祭祀の中には数時間固い床に正座するものもあり、また一子相伝のものもあるそうなので、その精神的身体的な大変さは想像を超えます。

元旦には、5時半から「四方拝」という祭祀を、まったくお一人で行われるのだそうです。

5時半から祭祀を行うということは、その前に禊(みそぎ)等の準備をすべて終わらせなければいけないわけです。

皇后陛下がいつも天皇陛下の健康を気遣うのは、高齢になられてもそのような激務を続けておられることを心配されてのことなのでしょう。

年頭の挨拶のお言葉を聞いたとき、すべての祭祀をとおして常に
「わが国と世界の人々の平安を祈って」
おられるのだなあと、なんだか切ないくらいありがく思えたのでした。

一般参賀で天皇陛下に向かって自然と日章旗をふりたくなるのは、そのようなありがたいと思う気持ちの発揚なのかもしれません。

もちろん、天皇陛下に対して日章旗をふる姿に対して戦争反対論者から批判があるのは承知しています。

確かに、普段天皇家に対してなんの感情も持っていない私でも、その姿に感じたほどの強い求心力が、戦争に利用されてしまえば、どれほど悲惨な結果になるかは先の大戦をみても明らかでしょう。

しかし、それはあくまでも戦争に利用された場合のことです。

逆に言えば、これほどの祈りが平和に向かうベクトルにのれば、その力はもともとの祈りの力と相まって、より強い求心力にもなりえるのだろうなあ、と感じたのでした。

 

少し話は変わりますが、年末のお茶の稽古納めのとき、床にかかっていた軸は「和敬清寂」でした。

この言葉は、千利休が茶道の精神を表した言葉だと言われています。

最初私は「和を敬い」だと勘違いしていて、なんだか日本礼賛のようであまり好きではありませんでしたが、勘違いもいいところです。

裏千家の大宗匠の言葉を借れば、この言葉の意味するところは、

和しあって敬いあって清らかであり、明日に対する今日の心構えが寂です。
その中でも和が中心です。
それは皆が平等に、区別、差別しないということです。

大宗匠は、特攻隊員でした。
明日特攻隊で旅立つ戦友に乞われ、お茶を点て配給の羊羹を出し別れのお茶会をされたこともあったそうです。

明日死にゆく戦友が言います。
平和になったら、もう一度ちゃんとしたお点前をいただきたいなあ、と。

大宗匠ご自身には突撃命令が出ないまま終戦を迎えます。

死に損ないという思いを抱え、「和敬清寂」の言葉を
「一盌からピースフルネスを」
とあらわして、ライフワークとされて世界中で活動されています。

他国の若い兵士たちに語ります。
「戦争をしに行く軍人になったらいけない。戦争をやめさせる平和の戦士になれ。」

「平和」というのは「戦争がないこと」ではないのだなあと気づかされます。

「戦争に反対する」ことはとても大切ですが、天皇陛下や大宗匠のように、さらに強く「平和へ」を核とした行動をすることは、より強く、未来へと向かうメッセージになるのだと思います。

 

なんだか、大仰なえらそうなことを書いてしまいましたが、もちろん私にそれほど大層なことができるわけではありませんが、

「日々の家事からピースフルネスを」

との思いをあらたにした年始です。

 

今年もよろしくお願いしますの気持ちをこめて たまちゃんより

 

 

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